播州赤穂浪士の物語『忠臣蔵』とは
「赤穂事件」は1703年1月30日(旧暦では元禄15年12月14日)、徳川家が天下泰平として国を治めていた時代に起きた歴史上の事件です。
当時、播磨赤穂藩の藩主であった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城の「松の廊下」で高家旗本である吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を切りつけ、その罪を問われ切腹に至ったことをきっかけに藩主を失った赤穂浪士が吉良を討ち入るまでの話を総称して『忠臣蔵』と言います。
ものすごく分かりやすい形でこの事件の経緯を解説しますと、江戸城に仕えていた播磨赤穂藩主の浅野(30代半ば)は幕府内でも高官であった吉良(60代)に色々な厄介ごと(政治的な意地悪)をされていました。
浅野は自分の潘を守るために我慢をしていましたがあるとき「大きな原因(※)」を吉良が作り、これにより我慢の限界を超えた浅野が吉良を切りつけてしまったわけです。
※この原因については諸説ありますが、正確なことは分かっていません。
簡単に現代風の言葉を使えば「パワハラ」がひどかったわけです。
30代半ばの浅野に対して60代の上司である吉良が無理難題を言い付けていたとされますが、この時代のパワハラは直接命を脅かす危険性が高かったため浅野も耐え切れなくなったと考えられています。
吉良を切りつけた浅野はその日のうちに切腹を命じられ逝去、そして赤穂潘は解体されることとなってしまいます。
これに憤慨したのが当時の播州赤穂浪士の方々です。
潘を解体されても主君の仇を討とうと計画を練り、浅野が切腹をしたおよそ1年半後に吉良の屋敷を襲撃したのです。
結果、吉良の首は赤穂浪士たちによって討ち取られ、主君の仇討ちを果たした赤穂浪士47人中46人は自首し切腹をしました。
当時、この事件はある意味テロのような形で取り上げられていましたが、時代が進むにつれて「忠誠心を見事に果たした武士たち」という形で演劇(歌舞伎など)の世界で取り上げられるようになります。
こうして作り上げられた物語の総称を『忠臣蔵』と呼ぶわけです。
ちなみに、なぜ仇討ちを果たした赤穂浪士たちが現代に伝わるよう正義側の人間として語られるようになったのかは漠然としていますが、もしかしたら討ち入りをした47人の中で唯一切腹を免れた寺坂信行が市井で本当のことを語り継いだからかもしれません。
なお、この寺坂信行が最後の自首の場まで付いてこなかった理由も分かっていませんが、一説によると赤穂浪士のリーダーだった大石内蔵助が逃がしたとも伝えられています。
赤穂市街の観光情報
忠臣蔵に代表される歴史情緒溢れた街・赤穂市には、今でも観光の名所がたくさん残っています。
- 赤穂大石神社
- 赤穂城跡
- 大石邸長屋門
- 赤穂義士宅跡
- 花岳寺
赤穂大石神社は大正元年に建造された神社で、大石内蔵助をはじめとする四十七義士命を祀る神社として鎮座しています。
また、大石内蔵助の邸宅とされる長屋跡や赤穂義士たちが使用していた長屋の跡地なども赤穂市観光の見どころのひとつです。
そして花岳寺には四十七義士の墓や歴史上の文化遺産、義士木像堂などもあり赤穂義士ゆかりの史跡とされています。
赤穂市には歴史好きの方であれば一度は訪れてみたい史跡がたくさんありますので、ぜひ赤穂浪士を巡る旅を楽しんでみてください。
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